南太平洋グランドクルーズ2009-18 夕陽 The Sunset


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2月2日(月) クルーズ14日目  

Mon. Feb. 2nd    14th day of the curise

デッキ・ディナー後の夕陽 The Sunset after Deck Dinner

 

三島由紀夫の「暁の寺」から「夕焼け」についての記述の抜粋: Excerpt about “sunset” from Mishima Yukio’s book, “Dawn Temple” 

『夕焼の本質などというものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などという色の椀飯振舞いをすることはめったにないのです。夕焼雲はあらゆる左右相称(シンメトリー)に対する侮蔑ですが、こういう秩序の破壊は、もっと根本的なものの破壊と結びついているのです。もし昼間の悠々たる白い雲が、道徳的な気高さの比喩になるなら、道徳に色などついていてよいものでしょうか。芸術はそれぞれの時代の最大の終末観を、何者よりも早く予見し、準備し、身を以って実現します。そういうものすべては、形式を待望していたのです。僅かな時間に人間の生活を悉く寇掠し席巻する形式を。それが夕焼ではありませんか。そして何のために?実になんのためでもありません。

もっと微妙なもの、もっとも枝葉末節の気むずかしい美的判断が、(私はあのひとつのオレンジ色の雲の縁のなんともいえない芳醇な曲線のことを言っているのですが)、大きな天空の普遍性と関わり合い、もっとも内面的なものが色めいて露になって外面性と結びつくのが夕焼です。すなわち夕焼は表現します。表現だけが夕焼の機能です。

人間のほんのわずかな羞恥や、喜びや、怒りや、不快が、天空的規模のものになること。人間の内臓の常は見えない色彩が、この大手術によって、空いちめんにひろげられ外面化されること。もっとも些細なやさしさや慇懃が世界苦と結びつき、はては、苦悩そのものがつかのまのオルギエになるのです。人々が昼のあいだ頑なに抱いていた無数の小さな理論が、天空の大きな感情の爆発、その花々しい感情の放恣に巻き込まれ、人々はあらゆる体系の無効をさとる。つまりそれは表現されてしまい、・・・・十数分間つづき、・・・・それから終わるのです。

夕焼は迅速だ。それは飛翔の性質を持っています。夕焼はともすると、この世界の翼なんですね。花蜜を吸おうとして羽ばたくあいだだけ虹色に閃く蜂雀の翼のように、世界は飛翔の可能性をちらと垣間見せ、夕焼の下の物象はみな、陶酔と恍惚のうちに飛び交わし、・・・・・・そして地に落ちてしんでしまいます』
                   
              

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